2017年 03月 10日

Dear.A





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優しかった背中

あなたの娘で良かった

この世に生んでくれたシアワセ

もうすぐサクラが咲くよ











去年の六月以来止まっていたエントリー。年をまたぎナント八ヶ月ぶりの更新である。三月四日は父の命日。もうすぐお彼岸だね。あちらの世界で母と仲良くしているだろうか・・・。そう、実母はもうこの世にはいない。

一月六日に父の元へ旅立ったのである。あれは平成26年6月のこと。母に大腸がんが見つかり突然の宣告だった。翌月すぐに腹腔鏡手術。退院後、早々に介護サービスを開始。オペ後は容態が順調で三ヶ月毎のCT検査もドクターから太鼓判を押されていたくらいで・・・。だが、翌年9月原発に再発が発見される。お薬のみの抗がん剤が始まったが残念ながらこれがあまり効くことなく、次の先生からの指示は一回に三時間かかる点滴による抗がん剤だった。これが良く効いて八ヶ月間続けることになる。

私はいつも通院に付き添い、血液検査での腫瘍マーカーの値が良いと「やって、やって」と、この抗がん剤をどんどん勧めてしまう。だが、これがいけなかったのかもしれない。母の身体は悲鳴を上げ昨年5月肺炎を起こしてしまう。その肺炎から亡くなるまでの八ヶ月間、6回もの入退院を繰り返し、母は最期まで生き抜くつもりで頑張っていた。功を奏して、その夏は一度は持ち直すものの、11月には腹水が溜まり緩和ケア病棟へ入院することに。よく、抗がん剤の良し悪しについていろいろな著書が出ているが、先生が仰ったのには「やらなければ、これほど延命は出来なかっただろう。しかしながら、肺炎の原因は抗がん剤によるものとも言える」ということだった。

その緩和ケア病棟では最後の思い出作りを沢山した。酷い嘔吐で何も口に出来ない日が続いたが、そんな中でもクリスマス会では甘い物が好物の母は出されたケーキを何口も「甘くて美味しい」と言いながら喜んで食べていた。だが病状は次第に悪化し年末にはお喋りもままならなくなっていた。年が明けて元日の朝、私は「栗きんとん」を持って母の元へ。母は、ただただ「甘い・・・」と言って一口、口にした。その「甘い・・・」の一言が母の最期の言葉になってしまった。四日には先生から「覚悟しておくように」と言われ、五日にはお小水も血が混じりあまり出なくなり手が冷たくガサガサになっていくのを目の当たりにし、その時初めて私は看護師さんの目も憚らずにおいおい泣いた。こんなに泣くのは初めてだというくらい涙が止めどなく流れた。翌六日、私達は比較的落ち着いていた。昨日泣くだけ泣いたから、もう覚悟は出来ていた。そして、夜11時40分。私達が見守る中で母は静かに永遠の眠りについた。

通夜の日、皆で旅支度をする際私は母にこう言った。「生んでくれてありがとう。大好きだよ。」と・・・。翌日、葬儀で荼毘にふされ納骨した。ようやく・・・と言ったら良いのか苦しい病魔からとの戦いから解放され、母は父と再びあちらの世界で一緒になったのだ。私は母の病気の宣告から自分なりには「やれるだけのことはやった。」と思い込んでいたが、お墓で父に「これで本当に良かったのか・・・」と聞いてみたい衝動に駆られた。皆が上げるお線香の煙だけが天に昇っていくのを見て、ふと我に返り優しかった二人の顔を思い出したのと共に、あのころの楽しかった思い出が走馬灯のように浮かんできた。

二月二十三日に忌明けを迎えた。私も4月から仕事に復帰することになった。また新しい毎日がやってくる。ただ明るかった母はもう居ない。大好きだった母にはもう会えない。せっかくの家にも二人きりだとなんだか寂しい。会いたい。そして、もう一度母に言いたい。「大好きだよ」って・・・。
































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昨日、義母の通院の日だったので行ってみると、白梅がきれいに咲いていた。五分咲きだったかな。
花を見る余裕も最近なかったけれど、やはり、美しいものはそのように心に沁みるものなのね。ああ・・・いいなぁと思いながらシャッターを切ると、実母の看病中封印していた「写欲」がむくむく湧き上がってきて、チョッと遅すぎだけれど、「今年も写真するぞー」と心に決めた次第。(笑・・・
という訳で、またまた、ぼちぼち更新にはなりますが、また、今年もよろしくお願いしますねぇ。
不在の間も覗いて下さった方がいらしたみたいで勝手しましてすみませんでした。
やっぱり、モノクロが好きだぁ~~~!

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by southern21 | 2017-03-10 14:25 | MONOCHROME | Comments(0)


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